寺の日々、あれこれ

2022年 原爆犠牲者・戦災死没者 慰霊法要を執り行いました。

NEW! 2022/08/07

こんにちは。持明院の寺嫁です。

77年目を迎えた8月6日午前8時15分
半鐘を打ち鳴らし、原爆投下や戦災によって亡くなられた物故者に黙とうを捧げ、慰霊法要を執り行いました。

以前、持明院がかつて爆心地から500mほどのところにあったこと、持明院にまつわる原爆の被害や、旧広島市立高等女学校の先生と生徒さん達との関係、そして当院の本尊様のお話をお伝えさせていただきました。

(過去ページ:原爆犠牲者・戦災死没者 慰霊法要(2020年))

(過去ページ:2021年 原爆犠牲者・戦災死没者 慰霊法要を執り行いました。(2021年))

 

爆心地近くの中島町に、「広島市立高女原爆慰霊碑」があります。

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広島市原爆関係の慰霊碑等の概要:平和記念公園 周辺ガイド:35 広島市立高女原爆慰霊碑より引用

実は、持明院の境内にも同じく、原爆で亡くなられたこの広島市立高等女学校の先生生徒さんのための「市女原爆追悼碑」があります。

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市女とは、広島市立高等女学校の略称で、現在の広島市立舟入高等学校になります。

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市女の1・2年生の生徒さんたちは、空爆による延焼を防ぐために、材木町~木挽町にて建物疎開の作業を前日8月5日より行っておりました。

そこは爆心地から500m。

頭上で突如として原爆がさく裂し、建物疎開の作業に来ていた生徒544人、職員8人の全員が亡くなられました。

また、この学校では他の動員先を含め、679人が被爆死し、市内の学校では最も多くの犠牲者がでたそうです。

 

過去ページにもありますように、持明院は当時、戸坂に移転する前は、この建物疎開の作業場所である平和公園前の現・中島町(旧木挽町)にありました。

持明院も手水鉢以外すべてを原爆によって失いました。その復興しているさなかに、お寺の境内地で多くの遺骨が見つかったため、その御霊を持明院にて安置・供養を行ったそうです。

 

1946年には被災地の中島町に木碑の供養塔が建てられ、現在ある「広島市立高女原爆慰霊碑」は1948年に学校の泰安殿跡の草山に建てられたものを移設したもので、当初の木碑供養塔は、そうしたご縁もあり1950年に持明院に移され、その後1951年には境内に「市女原爆慰霊碑」が広島市女原爆遺族会によって建立されました。

 

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「市女」「原爆」で検索すると中国新聞の

ヒロシマの記録-遺影は語る 広島市女1年

という記事を見つけました。

入学写真がクラスごとにあった2年生と違い、1年生は集合写真が撮影されなかったようです。

それだけでも悪化していく戦時下の状況が垣間見れるようです。

 

中国新聞では、遺族や生存者に協力を呼びかけ、当時1年生だった生徒の1人ひとりの遺影を捜し、生きたあかしと最期を追っています。

サイトには遺影とともに被爆状況や家族らの捜索状況が掲載されています。

 

1年生の学生さんたちは「憧れの市女」に入学したこと、新しいお友達や新たな学びに胸をワクワクドキドキさせながら新年度を迎えたに違いありません。受験して合格した喜び、家族の前でほほをほころばせながら憧れの制服にそでを通したこと、そうした様子も上記サイトの記載から感じ取れました。

入学後、結局は授業より勤労奉仕の方が多かったであろうこと、そしてその奉仕中に命を奪われたこと、学生らしい青春時代を謳歌できなかったこの時代・戦争の不幸は為政者ではなく民衆の上に影を落とすのだと実感します。

 

 

 

その1人1人の内容を読んでいくと、

市立造船工業学校教諭の父らが捜すが、遺骨は不明

応召の父に代わり、母が向かうが、遺骨は不明

自宅近くで背中一面にやけどをした県水産業会勤務の父が捜すが、遺骨は不明。

と、「遺骨は不明」という内容が多く並んでいました。

この「遺骨は不明」であった子たちのいくつかは旧持明院境内で見つかったものであったであろうと思います。

原爆が落ちてから、急いでわが子やわが妹を探し回った家族たち。勤務先や自宅が爆心地から近くけがを負っていた家族も多かったようですが、その怪我をおして惨禍の中を探し回った方も多かったようです。

 

爆心2・5キロの己斐駅近くで被爆した広陵中3年の兄昭四郎らが7日から捜すが、遺骨は不明。

「作業現場跡では、兵隊たちが死体を材木のように積み上げ油をかけて焼いていました。妹がいるのではと思い近づくと、作業がはかどらないからこらえてくれと許してもらえず…。その場を後にした時の悲しい、腹立たしい気持ちは忘れられません。

兄2人にもまれた妹は『大人びたのから幼稚なのまでいろんな子が集まっているから楽しい』と母頼子の母校でもある市女に喜んで通っていました」

 

 

房水道工事業の父三郎と母幸枝らが捜すが、遺骨は不明。

母に連れられて歩いた小学2年だった弟幸三は「防火水槽の中や焼け跡に倒れている死体を一人ずつ確かめながら、姉を捜しました。母が『川の方へ行ったんかねぇ』と向かった元安川は無数の死体が川面を埋め、見つけ出すことは無理でした。

翌年から、初めは木だった市女慰霊碑に母と欠かさず参っていました。昨年の夏は、兄夫婦と私の家族、米国にいる初孫ら10人が碑の前で午前8時15分を迎えました。8年前に逝った母の遺志を継ぐ者としての務めだと思っています」。

ヒロシマの記録-遺影は語る 広島市女1年より引用

 

 

何一つ痕跡を見つけ出すことが出来ないほど瞬時にして「生」を「無」にされてしまった虚無感や、こんな中でも何とか生きていてほしい…という希望も捨てきれず、想像を絶する惨禍の中、探し回ったのだと思います。

 

こうした「遺骨は不明」というのは、何年経ってもきっと残された遺族の皆様にとって心の整理をつけるのがとても難しかったに違いありません。

 

 

そう思うと、故人を送り出すお葬式というのは、残された者にとって、大切な儀式なのだと改めて感じます。

 

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戦争によって生まれた多くの悲しみや原爆の悲惨さは、

平凡な生活の中に起きた現実であり、

決して過去の出来事として忘れ去ってはならない

 

 

「生」を奪われた人の無念、そして生き残った人も、苦しみを抱えながら生きていかなければなりません。

死と直面し苦しむのは、今まで平凡に日々を送っていた、兵士や民衆です。

 

今年はウクライナ情勢が緊迫し、核使用を示唆するような声明もありました。

安全な場所で指示を出す為政者に、8月6日のメッセージがどれだけ伝わっているでしょうか。

 

 

 

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